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間々田八幡宮
間々田八幡宮
所在地:栃木県小山市
主祭神:誉田別命

5月5日に子供たちが藁の蛇を担ぎ「蛇が巻いたぞ」の掛け声と共に町内を練り歩く
「蛇祭り」で知られる神社。
創建は729〜749年の天平年間と伝わる。
939年の平将門による天慶の乱の折には、
藤原秀郷が将門討伐後に神饌御料として田地を供したことにちなみ、
飯田(まんまだ)と呼称されるようになる。
1189年に源頼朝が奥州征伐に向かう際には戦勝を祈願して松を植樹している。
江戸時代に入ると江戸から日光へ向かう日光街道のちょうど中間点にあたることから、
飯田から間々田へと改称され、例幣使も必ず参拝したという。
1716〜1736年の享和年間に火災により社殿がことごとく焼失したが、
1851年に社殿を再建し現在に至る。

写真は境内入り口の二の鳥居。
石製のシンプルな明神鳥居。
両端にかけてゆるやかに反り増しがつけられている。
足元には方形の台石がある。
実は国道4号に面して一の鳥居があるのだが、
鳥居の下の道が狭く駐車スペースがなく、
4号も交通量が多く停められないので撮影することができなかった。

こちらは境内にある摂社厳島神社の鳥居。
朱塗りの明神鳥居。反り増しは強めにつけられている。
足元には方形の台石がある。


参道途中にある狛犬。丸顔で豚鼻というどうにも狛犬らしくない狛犬。
所在地:栃木県小山市
主祭神:誉田別命

5月5日に子供たちが藁の蛇を担ぎ「蛇が巻いたぞ」の掛け声と共に町内を練り歩く
「蛇祭り」で知られる神社。
創建は729〜749年の天平年間と伝わる。
939年の平将門による天慶の乱の折には、
藤原秀郷が将門討伐後に神饌御料として田地を供したことにちなみ、
飯田(まんまだ)と呼称されるようになる。
1189年に源頼朝が奥州征伐に向かう際には戦勝を祈願して松を植樹している。
江戸時代に入ると江戸から日光へ向かう日光街道のちょうど中間点にあたることから、
飯田から間々田へと改称され、例幣使も必ず参拝したという。
1716〜1736年の享和年間に火災により社殿がことごとく焼失したが、
1851年に社殿を再建し現在に至る。

写真は境内入り口の二の鳥居。
石製のシンプルな明神鳥居。
両端にかけてゆるやかに反り増しがつけられている。
足元には方形の台石がある。
実は国道4号に面して一の鳥居があるのだが、
鳥居の下の道が狭く駐車スペースがなく、
4号も交通量が多く停められないので撮影することができなかった。

こちらは境内にある摂社厳島神社の鳥居。
朱塗りの明神鳥居。反り増しは強めにつけられている。
足元には方形の台石がある。


参道途中にある狛犬。丸顔で豚鼻というどうにも狛犬らしくない狛犬。
鷲神社
大宝八幡宮
大宝八幡宮
所在地:茨城県下妻市
主祭神:誉田別命、足仲彦命、気長足姫命

下妻市の北に位置する関東最古の八幡宮。
創建は701(大宝元)年。
常陸国河内郡へ下向する藤原時忠が、宇佐八幡を勧請したのが始まりと伝わる。
社名の「大宝」はこのときの年号にちなんで名付けられたものである。
1062年、前九年の役の際には源頼義が祭祀田を献上している。
「吾妻鏡」にも下妻宮としるされているこの神で社は、
1189年には奥州平定の日に源頼朝によって鎌倉鶴岡八幡が勧請され、
摂社の若宮八幡が創建されている。
また平将門に新皇につくよう託宣した巫女はこの宮の巫女だという伝説も残る。
この神社の裏手には国指定の史跡「大宝城跡」がある。
大宝城は1086年平清朝によって築城され、平安時代〜南北朝時代にかけて存在していた。
その存在が最も知られているのは下妻政泰が城主であった南北朝時代であろう。
1338年9月、南朝の北畠親房は南朝勢力の回復を期するために海路常陸に下向したものの、
高師冬率いる北朝軍に攻められ、神宮寺城、阿波崎城、と次々に落とされる。
10月に親房は小田城に移り、この陣中で「神皇正統記」を著していた。
南北朝両軍の攻防は一進一退が続き、
1341年11月10日には消耗戦をしかける師冬に、
小田城城主小田治久が降伏の意を示したために、
親房は大宝城の北にある関城に移動。
常陸国司である春日侍従顕国が後醍醐天皇の孫(護良親王の子)にあたる
興良親王を擁して大宝城に入城した。
12月6日に師冬は大宝城を包囲し、翌1342年の3月13日に攻撃をしかけた。
その後1年以上両城は持ちこたえ、1343年3月29日には北朝側へ反攻をしかけたものの、
11月11日に両城は落城、大宝城主下妻政泰は戦死。
親房は脱出したものの戦意を喪失し吉野に戻り、
顕国はその後も常陸国内を転戦し、
1344年3月8日に南朝残党を率いて大宝城を襲い奪い返すものの、
一夜にして奪い返され4月24日都で処刑された。
その後元亀(1570〜1573)年間に多賀谷氏が大宝の南に新たに下妻城を築城。
1062年には下妻城主多賀谷尊経によって焼失した本殿が再建され、現在に至っている。
この本殿は国の重要文化財に指定されている。
1795年には時の光格天皇より御宸筆の幕と御神紋が下賜されている。


一の鳥居。
中の材質はわからないが石材かコンクリートではないかと思われる。
プラスチックの筒が一面にまきついている。
やや転びのついた神明鳥居であり、足元には方形と台形の二段の台石がある。
ちなみに社漂の後ろにあるのは大宝城の土塁跡である。

逆光で見にくいのだが二の鳥居。
形状的には一の鳥居と全く同じである。

そして境内入り口にある三の鳥居。
一の鳥居、二の鳥居と同じプラスチックのまきついた神明鳥居だが、
前2つの鳥居と比べると笠木の部分が太くがっしりとした印象を受ける。
また転びもやや強めにつけられている。

これも逆光になってしまっているが脇参道の鳥居。
形状的には一の鳥居・二の鳥居と同じである。

神門の脇にある摂社市姫神社の鳥居。
石製の神明鳥居で足元には二段の台石がある。
転びは小さくすらっとした印象を受ける。

こちらは摂社青龍権現社の鳥居。
石製の明神鳥居で足元には亀腹と台石がある。
スタンダードな形状の非常にスッキリとした印象の鳥居である。
この神社には「ひとつもの」という次のような伝説がある。
かつてこの神社を取り囲んでいた大宝沼には大白蛇がおり、
近隣の村娘を人身御供に求めていたが、
村人たちが一つ目の大きな藁人形を作り、これによって大蛇は沼からいなくなったという。
この伝説をもとに今でも9月15日の夜には祭事が行われている。
【参拝案内】(車の場合)
東京方面から来る場合常磐自動車道を谷田部ICで降りて国道294号を北上、
高木川西の交差点で左折して国道125号に入り小野子T字路の信号を右折。
県道357号に入り踏み切り手前の交差点で右に大きくカーブ、
そのまま道なりに進むと案内版が見えてくるので指示に従い左折すると一の鳥居が見えてくる。
神社としての駐車場はないが境内前の売店が無料駐車場を経営しているのでそこに停められる。
お団子が名物なので駐車料金代わりに買うのもいいだろう。
(電車の場合)
関東鉄道常総線大宝駅から徒歩3分。
所在地:茨城県下妻市
主祭神:誉田別命、足仲彦命、気長足姫命

下妻市の北に位置する関東最古の八幡宮。
創建は701(大宝元)年。
常陸国河内郡へ下向する藤原時忠が、宇佐八幡を勧請したのが始まりと伝わる。
社名の「大宝」はこのときの年号にちなんで名付けられたものである。
1062年、前九年の役の際には源頼義が祭祀田を献上している。
「吾妻鏡」にも下妻宮としるされているこの神で社は、
1189年には奥州平定の日に源頼朝によって鎌倉鶴岡八幡が勧請され、
摂社の若宮八幡が創建されている。
また平将門に新皇につくよう託宣した巫女はこの宮の巫女だという伝説も残る。
この神社の裏手には国指定の史跡「大宝城跡」がある。
大宝城は1086年平清朝によって築城され、平安時代〜南北朝時代にかけて存在していた。
その存在が最も知られているのは下妻政泰が城主であった南北朝時代であろう。
1338年9月、南朝の北畠親房は南朝勢力の回復を期するために海路常陸に下向したものの、
高師冬率いる北朝軍に攻められ、神宮寺城、阿波崎城、と次々に落とされる。
10月に親房は小田城に移り、この陣中で「神皇正統記」を著していた。
南北朝両軍の攻防は一進一退が続き、
1341年11月10日には消耗戦をしかける師冬に、
小田城城主小田治久が降伏の意を示したために、
親房は大宝城の北にある関城に移動。
常陸国司である春日侍従顕国が後醍醐天皇の孫(護良親王の子)にあたる
興良親王を擁して大宝城に入城した。
12月6日に師冬は大宝城を包囲し、翌1342年の3月13日に攻撃をしかけた。
その後1年以上両城は持ちこたえ、1343年3月29日には北朝側へ反攻をしかけたものの、
11月11日に両城は落城、大宝城主下妻政泰は戦死。
親房は脱出したものの戦意を喪失し吉野に戻り、
顕国はその後も常陸国内を転戦し、
1344年3月8日に南朝残党を率いて大宝城を襲い奪い返すものの、
一夜にして奪い返され4月24日都で処刑された。
その後元亀(1570〜1573)年間に多賀谷氏が大宝の南に新たに下妻城を築城。
1062年には下妻城主多賀谷尊経によって焼失した本殿が再建され、現在に至っている。
この本殿は国の重要文化財に指定されている。
1795年には時の光格天皇より御宸筆の幕と御神紋が下賜されている。


一の鳥居。
中の材質はわからないが石材かコンクリートではないかと思われる。
プラスチックの筒が一面にまきついている。
やや転びのついた神明鳥居であり、足元には方形と台形の二段の台石がある。
ちなみに社漂の後ろにあるのは大宝城の土塁跡である。

逆光で見にくいのだが二の鳥居。
形状的には一の鳥居と全く同じである。

そして境内入り口にある三の鳥居。
一の鳥居、二の鳥居と同じプラスチックのまきついた神明鳥居だが、
前2つの鳥居と比べると笠木の部分が太くがっしりとした印象を受ける。
また転びもやや強めにつけられている。

これも逆光になってしまっているが脇参道の鳥居。
形状的には一の鳥居・二の鳥居と同じである。

神門の脇にある摂社市姫神社の鳥居。
石製の神明鳥居で足元には二段の台石がある。
転びは小さくすらっとした印象を受ける。

こちらは摂社青龍権現社の鳥居。
石製の明神鳥居で足元には亀腹と台石がある。
スタンダードな形状の非常にスッキリとした印象の鳥居である。
この神社には「ひとつもの」という次のような伝説がある。
かつてこの神社を取り囲んでいた大宝沼には大白蛇がおり、
近隣の村娘を人身御供に求めていたが、
村人たちが一つ目の大きな藁人形を作り、これによって大蛇は沼からいなくなったという。
この伝説をもとに今でも9月15日の夜には祭事が行われている。
【参拝案内】(車の場合)
東京方面から来る場合常磐自動車道を谷田部ICで降りて国道294号を北上、
高木川西の交差点で左折して国道125号に入り小野子T字路の信号を右折。
県道357号に入り踏み切り手前の交差点で右に大きくカーブ、
そのまま道なりに進むと案内版が見えてくるので指示に従い左折すると一の鳥居が見えてくる。
神社としての駐車場はないが境内前の売店が無料駐車場を経営しているのでそこに停められる。
お団子が名物なので駐車料金代わりに買うのもいいだろう。
(電車の場合)
関東鉄道常総線大宝駅から徒歩3分。
一瓶塚稲荷神社
一瓶塚稲荷神社
所在地:栃木県佐野市
主祭神:豊受姫神、猿田彦神、大宮能売神、久久能智神、草野姫神(五社稲荷)

昨年2月28日に佐野市に吸収合併された旧田沼町にある神社。
この神社の門前町として発展した田沼町は、
徳川家重・家治に重用された老中田沼意次を輩出した田沼氏の所領地であったことで有名である。
942年に前身となる稲荷社が藤原秀郷によって、
鎌倉の松ケ岡稲荷大明神から唐沢山の南にある富士村に勧請された。
その後1186年に秀郷の八代孫にあたる佐野庄司成俊が唐沢山城再興の折に、
現在の地に城の後口の固めとして塚を築き、稲荷社を遷座したのが創建と伝わる。
このときに、領民が競って土を瓶に入れて持ち寄り塚を築いたことから、
「一瓶塚」の名がついたとされている。
本殿は1798年、拝殿・幣殿は1856年の建造であり、栃木県指定の重要文化財になっている。
佐野の惣社として尊崇を集め、2月の初午市は現在でも多くの人出でにぎわっている。

県道115号に面した一の鳥居。
朱塗りの稲荷鳥居。反り増しが弱く八幡鳥居のような印象を受ける。
額束には鋳造の「稲荷神社」の神額がある。
足元には黒の藁座がまきついている。

参道途中の二の鳥居。
銅製の稲荷鳥居。跳ね上がるようにつけられた反り増しが印象的である。
足元には3体の狛犬をあしらった装飾がなされている。
この鳥居は1746年に天明宿の鋳物師によって建立されたものであり、
国指定重要美術品となっている。
所在地:栃木県佐野市
主祭神:豊受姫神、猿田彦神、大宮能売神、久久能智神、草野姫神(五社稲荷)

昨年2月28日に佐野市に吸収合併された旧田沼町にある神社。
この神社の門前町として発展した田沼町は、
徳川家重・家治に重用された老中田沼意次を輩出した田沼氏の所領地であったことで有名である。
942年に前身となる稲荷社が藤原秀郷によって、
鎌倉の松ケ岡稲荷大明神から唐沢山の南にある富士村に勧請された。
その後1186年に秀郷の八代孫にあたる佐野庄司成俊が唐沢山城再興の折に、
現在の地に城の後口の固めとして塚を築き、稲荷社を遷座したのが創建と伝わる。
このときに、領民が競って土を瓶に入れて持ち寄り塚を築いたことから、
「一瓶塚」の名がついたとされている。
本殿は1798年、拝殿・幣殿は1856年の建造であり、栃木県指定の重要文化財になっている。
佐野の惣社として尊崇を集め、2月の初午市は現在でも多くの人出でにぎわっている。

県道115号に面した一の鳥居。
朱塗りの稲荷鳥居。反り増しが弱く八幡鳥居のような印象を受ける。
額束には鋳造の「稲荷神社」の神額がある。
足元には黒の藁座がまきついている。

参道途中の二の鳥居。
銅製の稲荷鳥居。跳ね上がるようにつけられた反り増しが印象的である。
足元には3体の狛犬をあしらった装飾がなされている。
この鳥居は1746年に天明宿の鋳物師によって建立されたものであり、
国指定重要美術品となっている。
人丸神社
気がついたら先月の更新は1件だけという、
大変お寒い内容になってしまっていました。
我ながらズボラにもほどがあると、深く反省しております。
人丸神社
所在地:栃木県佐野市
主祭神:柿本人麻呂

三六歌仙の一人に数えられ「歌聖」と崇められた柿本人麻呂を祀る神社。
創建は非常に古く877年と伝わる。
柿本人麻呂の最期の地となった石見国高津には724年に人麻呂神社が創建されているが、
こちらの神社との関係性はどうなのか、
またあまり人麻呂とゆかりのなさそうに思えるこの地になぜ創建されたのか、
もう少し調べてみたいところである。

こちらは参道入り口の鳥居。
石製の明神鳥居だが、力強い反り増しが特徴的である。
笠木も島木も細く反り増しが強いため、全体的にほっそりとした印象を受ける。
額束には石製の「人丸神社」の神額がかかっている。


拝殿の前には青いガラス玉を目に埋め込んだ狛犬がいる。
どうにも狛犬には見えないずんぐりむっくりな体型である。
大変お寒い内容になってしまっていました。
我ながらズボラにもほどがあると、深く反省しております。
人丸神社
所在地:栃木県佐野市
主祭神:柿本人麻呂

三六歌仙の一人に数えられ「歌聖」と崇められた柿本人麻呂を祀る神社。
創建は非常に古く877年と伝わる。
柿本人麻呂の最期の地となった石見国高津には724年に人麻呂神社が創建されているが、
こちらの神社との関係性はどうなのか、
またあまり人麻呂とゆかりのなさそうに思えるこの地になぜ創建されたのか、
もう少し調べてみたいところである。

こちらは参道入り口の鳥居。
石製の明神鳥居だが、力強い反り増しが特徴的である。
笠木も島木も細く反り増しが強いため、全体的にほっそりとした印象を受ける。
額束には石製の「人丸神社」の神額がかかっている。


拝殿の前には青いガラス玉を目に埋め込んだ狛犬がいる。
どうにも狛犬には見えないずんぐりむっくりな体型である。
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